20130318

垂直、平行、または円 物語の拡がり②



予想していたより早く更新できるようになりました。
最近は会田誠展が話題になっていますね。
性と暴力の表現のボーダーライン。
先日私が訪れたwithecube bermondseyではEddie Peakeがパフォーマンスを行っていました。
ロンドン動物園をイメージしたという囲い状の建物の中に服を着ていない男女が
生演奏に合わせて楽しそうに踊ったりくっついていたりしていました。
サイトには彼のパフォーマンスがあると載っていないので、
何も知らずに出くわした私は本当にびっくりして
よくも悪くも露呈する表現に対する認識のギャップを感じました。
Eddie Peakeのインタビュー映像。
TATEが制作しています。

余談はここまでで、本題に入りたいと思います。
今回取り上げるのはCarroll/Fletcherで行われたNatascha Sadr Haghighian。
Natascha Sadr Haghighianはベルリンを拠点に活動するアーティストで、ドクメンタにも参加していました。

まず最初にこの展示の感想を一言でまとめると、「難解」。
投稿のため随分リサーチを行いましたが、未だに彼女の取り上げた問題を消化しきれていないような気がしてなりません。
彼女は2011年にはBarcelona Museum of Contemporary Art(MACBA)で大規模な個展も行いました。
友人曰くその展示は素晴らしく、今回の展示もそのイメージなしには見ることができなかったと言います。

しかし、彼女の経歴の多くは謎に包まれたままです。
試しにCarroll/Fletcherで、彼女の経歴のページを見てみましょう。
そこには彼女のプロフィールは”www.bioswop.net”にて見ることができると書かれています。
そのサイトは彼女が2004年に「アート関係者がプロフィールを埋めるために、各々の経歴を交換し借りる」目的のために設立されたものという説明もされています。
bioswopでは更に詳しい情報を得ることができました。
簡単にまとめると彼女がそのサイトの役割として望んでいることは
「市場の交換価値を構成している」要素としての履歴書の価値を下げる」ことにあると分かりました。

このサイトのインフォメーションを見ただけでも推察できるように、彼女の主題は
社会における大きな権威やしきたりに疑問を投げかけ、問い続けることなのです。
もちろんその中には排他的で特権的なアート業界も含まれます。


展示の最初は部屋はこの作品から始まりました。
旅行用のキャスター付きトランクの持ち手がロンドンで見慣れたBoxtonというミネナルウォーターのペットボトルの上に乗っています。
トランクの中には電動機が入っており、一定のスピードでペットボトルを潰すのです。
そのすぐ側にはマイクが設置されており、潰される音が拡張されその作品の他に何もない響きます。
一目見ただけで何かの寓意と分かるその作品の詳細は、次の部屋へと続くのです。

その部屋にはいくつかのロンドンにおける「Boxton」受容に関する作品が"resurch display"とされ、展示されていました。
まずは飛行機がどこからどこへ飛ぶのか、その軌跡が書かれた地図です。それは1992年にEUの航空産業規約解除が如何なるインパクトを与えたのかを見てとることができます。
次にBoxtonの所有権についての会議合意書、そして遺影のように設置された公共の冷水機で水を飲む人たちの写真。

最後に床には20本の中に水滴があるBoxtonのペットボトルが20本置かれています。
この作品群はde Pasoと名付けられMACBAでの個展のタイトルにもなった、彼女の最近の活動を代表するような作品です。
綿密なリサーチに基づいて表現された展示。ペットボトルが潰される音はそれらの調査結果全てを凝縮し、隣のこの部屋にまで響いてきます。


地上階最後の部屋にあったのはunternehmen:Bermuda(2000)です。

これは彼女がArs Viva Awardの審査員にお願いして、その審議場所を道路の三角地帯にあるバス停へと変更したのです。
その三角地帯は病院、自然博物館、美術館をそれぞれの頂点に持つ場所で、彼女はアートと科学の衝突地点であり限界地点を示すためにその場を選んだと説明されています。
そこで当惑する審査員と楽しそうにプレゼンを行うアーティスト。
その模様は秘密裏に撮影され、作品となりました。

ドクメンタで展示されていた作品は、傾斜に第二次世界大戦のかれきを集め階段を作り、
録音された世界各国の言葉で動物の鳴き声をまねる音声が流れていました。
最後ははしごを登り、ドクメンタの会場を出ることができます。


示唆的で暗示的な作品。
Ai WeiWeiと同じように「社会派」として知られる彼女ですが、問題への寄り添い方は違っています。
彼女の作品は、もしキャプションが先にあれば、それをまず読んでしまったと思います。
ギャラリーでは入った瞬間にBoxtonを潰すスーツケースの作品があったので、
まずビジュアルを見て興味をそそられましたが、そうでなければ難しいキャプションを読むことに
疲れてしまったかもしれません。

ドクメンタでも同じようなことが起こりました。
一つ一つの作品が難解すぎて、カタログを手放すことができなかったのです。
(もちろんJanet Cardiff & George Bures Millerのサウンドインスタレーションなど
理論がわからなくても楽しめるものはありました。)

しかし、「難解」という価値判断が個人的なものからもわかるように、
この難解さは提示された問題からの距離によって生じるものなのではないかと考えました。
Haghighianは日本で知られたアーティストではないと思います。
それは、日本から彼女の提示する問題が遠すぎ、またヨーロッパにフォーカスしすぎているからです。
それが悪いわけではありません。
世界にアーティストはたくさんいるし、それ以上に取り上げられる問題はたくさんあります。
私たちは今、問題の表面をなぞり分かった気になるけど、
一つのペットボトルだけでも大きな問題があって、失われた歴史があるということを
Haghghianは教えてくれるのです。

やはり、アートは欧米で長らく発達してきたものです。
だから、ヨーロッパで、ヨーロッパの問題を深く掘り下げるアーティストもたくさんいて、
彼らの需要は多くあります。
しかし、日本でそれらの作品を紹介しようと思えば、
まず皆の興味をそそらず、その上膨大なテキストを必要とするために、
面倒なことになってしまうのは分かり切ったことです。

その点、前回のブログで取り上げた「平行な物語」モデルは取り上げやすい。
だから、日本では「平行な物語」が優勢で、人気を博しているのだと思います。

それと比べ、Haghghianは「垂直な物語」モデルです。
世界を転覆させることはできないかもしれないけど、小さなところから、
そしてそれを根本から見直そうという姿勢を感じます。
毎日退屈さを感じていたとしても、世界の細部はこんなにも複雑に絡み合っている。
その複雑さをもっと複雑にして、もっとおもしろくしたい。

Haghghianの日本語でのインフォメーションの少なさと
こちらでの人気の反比例は、私が日本とこちらのアートの需要の違いの面白さを感じた
一つのきっかけとなりました。


ロンドンは今日も曇り空です。
また、近いうちに更新します。

0 件のコメント:

コメントを投稿